人称代名詞に指される気分は如何?(4/4)

 
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子供だった自分は大人たちの言うがままに教えられるままに従って来た。
今は大人になり、家庭を持ち、子供を持ち、時は流れて、流れて、川の流れのように、
ここオーストリアに流れ着いて(笑)、
ドイツ語を学び喋る日々を過ごすことになった。

ドイツ語は英語に似ている面もたくさんあります。
兄弟言語とも言われることからも分かりますように。
だからか、ドイツ語にも「人称代名詞」と呼ばれるモノがあります、
もちろん、英語とは違った単語。 

he は er に相当するということ、she は sie に相当するということ。
英語そしてドイツ語をちょっとでも囓った人なら直ぐに分かるでしょう。

子供たちだって日常のコミュニケーションにあって無意識にも体感しているようです、
あの男の人を指す時には er を使って指し示すのだということを。
あの女の人を指す時には sie と使って指し示すのだということを。









ある日のこと、私のことを母親と会話しているのを耳にしたことがありました。
こどもは私のことを er という人称代名詞を使って言及していました。
そうしたら母親がちょっとした剣幕で「er って誰のこと?」と詰問していた。
「er って言うの? ちゃんと名前があるでしょう!?」

Papa と言うのかな?



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人称代名詞を使うと、
その指し示している人が非人格化されてしまうかのような印象を与えるらしい、
というのが理解出来た。

人やモノにはすべて名前がある。
天地開闢、アダムとエバが身の回りのモノ全部に名前を付けても良い、
と言われてからのことであったらしい。

名前のないものはない。(追記、最近の?日本語の変貌ということのなでしょうか、モノに対して複数形の「たち」を使っているのが散見されます。例えば、本たち。お店たち。変な感じを抱くのはわたしだけ?)

「自分は er という単なる”人称代名詞”に置き換えられる存在に成り下がってしまったのか!?」

ドイツ語にも人称代名詞があることが何というのか迷惑なことと言うのか、
ドイツ語界だって言葉の経済に気を使ってきているのだろうと自分を納得させようとしたり、
何となくどちらにも組みできないような宙ぶらりんな気分になったことを覚えています。


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私も日々ドイツ語を学んでいる一人ですが、子供たちだって学校教育で学んでくるドイツ語の使い方を体全体で覚え込んできているだけのことなのか、それともそれとは違った家庭内でのドイツ語の使い方を教えるのも家庭内教育というのものなのか。

そういえば思い出した。ご近所の奥さんのことを話題にしていたわたし、
奥さんの名前をド忘れてしてしまって、思い出せない、ということは自分でも分かっていた。
でも話題にした。

奥さんのことを仕方なしに sie とか お隣さん Nachbarin とか言っていたら、
こどもに負けず、言われてしまった。

「お隣さんって誰のこと? 名前がちゃんとあるでしょう!?」

人称代名詞の使用には気を付けた方が宜しいようです。
無言のルールがあるかのようですね。


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マルティン・ブーバーのあの著作を思い出した次第です。
Ich und Du。ドイツ語習得教科書のタイトルではありません!

我が母校の英語教授が日本語訳したのを持っていますが、日本語でも良く分からなかった印象も昔持ったことがあります。

ドイツ語を学んでいるのだから、ドイツ語を知るに至ったのだから、原著に当たってみようと、思い当たったが、なぜか原著に触れないままに今日に至ってしまっています。原著だったら日本語訳よりも分かりやすいかも?

日常生活での人間関係を超脱して宗教哲学的な指示代名詞関係を深く考察している真摯さには脱帽するも、その思考の世界にちょっとチューンアップできない。ドイツ語をちょっと知っていることで哲学ができるということにはならないのですよね(笑)

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